筑波大学附属久里浜特別支援学校 Special Needs Education School for Children with Autism,University of Tsukuba

角番校長の挨拶日記 その2 「おじさん」

 この4月に入学した1年生のK君、彼は、毎朝お母さんと30分程の道のりを歩いて登校する。登校したK君の額にはうっすら汗が浮かんでいる。学校に着くと、くたびれた様子を見せることもあったが、最近は慣れたようである。

 今日は、少々、朝の気温が高かったこともあって、K君の顔には赤みがさしていた。靴を履き替え私の前にきたK君は、「にこっ」と笑って私を見て一言。

 「おじさん」と言う。いつもは、私と向かい合って、私の「おはようございます」に合わせてお辞儀をするだけだが、今日は自分から私に向けて言葉を発した。それも「おじさん」。後ろに控えていた担任の先生は、驚くやら笑いをこらえるやら。

 私は、嬉しかった。初めて言葉をかけてくれたことはもちろんであるが、それが「おじさん」であることも。「おじいさん」ではなかったのだから。彼の言葉の概念としては、「おじさん」に分類されたということである。

 K君が自分の言葉の蓄え(語彙)から、私という存在に「おじさん」という言葉を探してきてくれた能動的な行為は、とても嬉しいことである。そして、「おじさん」は正解であろう。学校の外で、私のような存在は紛れもなく「おじさん」か「おじいさん」であろうから。前者として認められたことを、私は、ささやかな喜びとしたい。

 いずれ彼は、学校生活の中で、私に「校長」という呼び名があることを知るであろう。私は「校長」であり「おじさん」である訳だが、こういう一つの存在の二面性と言おうか、多面性(私という人間は、家庭に帰ればお父さんであり、おじいさんであり、夫でもあるなど、人はいくつもの役割を生きており、それぞれに呼び名がある)が理解しにくい彼らは、「おじさん」という呼び方をしなくなるだろう。「校長」という呼び方が推奨され、評価されるからである。それは社会生活を送る上で致し方ない面もあるが、自ら「おじさん」と発するような自発の芽だけは摘みたくないものである。